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アンマンからの手紙

banabanaさんのページに飛びます。
ウーンと考え込んでしまった手紙です・・・

アンマンからの手紙

やはり全文をここに転載させていただきます。
この手紙は衝撃的ですが、
私はポイントは後半部分にあると思っています。
つまり、イラクの反省を生かして日本はどうすべきか。
声なき声を汲み上げて、
世界をどの方向へ向けるように全力を注ぐべきか。
そのために日本の国民である私たちがどう考え、
この問題に取り組んでいくべきか。
それを考えながら、この手紙を読んでみてください。
                   うるとびーず

【アンマンからの手紙】

 人生には、たまに、男らしく自分は間違っていたというべきときがあると思います。人は、自分は割と正しいと思い、正義に燃えていると思っているものですが、今回イラクの状況に対して、自分が間違っていたということを述べるべきだと私は思いました。

 特に、日本の憲法が世界のお手本になるべきだと思っている者の一人として、そして戦争は絶対に起こしてはいけないという立場である一人として、この度、イラク問題が活発になってきたときに、精一杯戦争に反対しました。私は何年か前に「だいじょうぶ日本」という本を書きました。そのテーマは日本が平和憲法を基本とした外交をやるべきということでした。これまで反戦のデモに参加し、いろいろな自分の持っている番組の中で、またはコラムなどオピニオンを書く場などでも多くを書きましたし、せいいっぱい戦争に反対してきました。

 たぶん、物事を一番わかりやすく説明する方法は実際、歴史で何が起こったのかということを説明するのが一番だと思います。実は私は祖父、祖母がアッシリア人でイラクのモスル出身なのです。アッシリア人はキリスト教徒なので、1917年に、イラクで大虐殺がありまして、彼らはそこから逃げて、遂にアメリカのシカゴにたどり着きました。私の父はそののち、戦後マッカーサーが日本の復興のために一万人の若者によびかけた時に、その一陣として1952年に日本に来ました。

 実は、日本とイラクは昔から交流があります。日本書紀には、アッシリアの神父が日本の天皇と面会したとの記述があります。そして、今回は、ロンドンでのイラク関係の会合に、アジアの代表として出席しました。アッシリアというのは、国家をもたない民族の一つで世界には約600万人おります。イスラエル国家ができたときに同時にキリスト教の国アッシリアが出来るはずでしたが、うまくいかずいまだにアッシリア人には国がない状態です。

 そういうこともあって、私はイラクに行くことにしました。それは、アッシリア教会とまた自分の親戚に対して日本からの救援物資をもっていくことが主な目的でした。後で気が付いたことでしたが、イラク国内にいるときは通常、必ず24時間の監視がつきます。報道陣にも人間の盾にもすべて監視が24時間あります。でも、私たちには、イラクに親戚がいるということもあり、まったく最初から最後まで監視がつきませんでした。自分の祖父祖母の生まれ故郷にいって、自分のルーツをたどるという、とても素晴らしい経験でした。

 着いてすぐに教会で平和集会がありました。私は、喜んで戦争に反対する平和集会に参加しました。熱心なみなさんといっしょに参加していました。そのときは各国からの平和団体を招いての平和集会でした。集会が終わった後、隣の部屋で食事会がありました。隣にいるおじさんが、座っていまして、突然私にへんなことをいいだしました。

 『勘違いしないでください。今日の集会は私たちは好きで来ているわけではありませんからね。』と周囲を確かめながら静かな声で言いました。
 『神父さんが、平和集会を外国の方を招いてやるから、みんな参加してくださいと呼びかけたときに、私たちはみんな断りましたよ。』

 私は、びっくりして、『どういうことですか?』と尋ねました。
 『だってみんな平和をのぞんでいるでしょう?』
 『違いますよ。なんでみんな平和集会を断ったかというと、みんな今のような「平和」をのぞんでいませんよ』と彼がいいました。
 『私たちは一日も早い戦争を望んでいます。』

 そんなバカな話が!と私は思いました。でもゆっくり話を聞くと、今でも納得はできませんが、彼が言っている意味が少しずつ分かるようになってきました。

 その後、直接の親戚の家にとまり、彼たちの毎日の生活を、泣きながら見て、少しずつわかるようになってきました。私の脳裏に何が浮かんできたかというと、私がよく日本の年寄りから聞いた話でした。戦争中、一番状況がひどいときに、爆撃機をみ、そして空襲が始まったときに、とても複雑な気持ちで迎えたという話でした。つらいし、もちろんとんでもなく嫌だ。でもまったく希望がなかった、いつまでもつづくかもしれないつらい状況が、これで終わるんだなと感じる出来事だったというふうに聞かされていました。

 そのあと、たくさんの人に話を聞きました。すぐにわかったことは、みんながどこまでも、怯えていると言うことでした。電話がなっただけでも、ドアのブザーがなっただけでも、すぐに立ち上がり、恐怖におののくその瞬間瞬間をみて、本当に思っていることを外部の人間に語るだけでもどんなに大変なことであるかということが少しずつわかってきました。

 『こういうことを言うだけで、殺されるんだよ』というように言われたとき、なかなか理解することも信じることも、私には難しかったのです。でも、本当にたいへんなリスクを背負ってでも、自分の本当の気持ちを伝えてくれたました。家族、お店の人、老人、子ども、軍隊関係の人、警察関係の人まで、さまざまな人からききたくないこと、信じたくないことを何度も何度も聞かされました。

 彼らは、アメリカとイギリスは、昔も今も嫌いです。本当はこのような追い詰められた状況までこなくてもよかったと思います。日本をはじめとして、平和でたっている国々がもうちょっとがんばって、ねばり強く交渉してくれれば違う道は絶対にあったでしょう。特に日本に対しての気持ちは強かったです。一番大事なときに総理大臣を送れば良かったのに、外務副大臣を送ったことが自分たちと同じように戦争を経験してきた日本がこれだけのことしかできなかったことへの残念な気持ちを感じました。

 でも結局は、日本をはじめとした、外交交渉だけでは、うまくいかなかった。残念ながら、結果として、イラクの人々自身のこの悲惨な状況をかえてくれるのは武力しかないという悲しい結果になったことや、また、それが戦時中の日本人と同じような気持ちだということが、信じたくない状況の中で少しずつわかってきました。

 『私たちの生き方を見てください』といわれました。
 『人間みたいな暮らし方ですか?食べるものもないし、車もない、電話もない、毎日恐怖に怯え、これは人間の生き方ですか?』
 
 私は何度もいいました。

 『でもだからといって、武力を願うということは、申し訳ないけれど納得できません』

 わたしは頑張りました。しかし、彼らの悲惨な生活をともにしながら、そして、期待も希望も失って、人間の最低の生活をそのまま見る中で、少しずつ、自分の気持ちが変わっていきました。最初は、アッシリア人だけの小さなコミュニティだけの意見だと思いましたが、幅広く、120~130人以上のいろいろな分野や職業、宗教、民族の方々と話すなかで、少しずつ、わかってきました。

 私は今まではあまりこのことを伝えたくありませんでした。なぜなら無条件で私を入れてくれたイラクのたくさんの友達に失礼だと思いますし、そして、多少自分のプライドもあります。こんなに戦争に反対していたのですから。

 でもテレビを見たり新聞を見たりしている中で、今イラクにいるある方がいっていましたが、9割以上のイラクを支配しているバース党以外の方々の一般の市民の声が全く伝えられていないことに気が付きました。

 実は私はずっとバグダッドに残りたかった。バグダッドは私にとって最高な街の一つです。7000年もの歴史があり、どこにいっても自分の親戚が何人かいたり、自分の部族出身者がいて、自分にはとてもあっている、気楽なところです。自分の子どものころの東京を思い出させる最高なところです。

 バグダッドにいるときにみなさんの気持ちが伝わってきたのは、こういうときでした。タクシーに乗ったり、お茶を飲んだりするときに、お金を受け取るのを拒否されました。どうして、これからの敵になるかも知れない私に親切にするのか?

 声なき彼らの「早く助けてください」という沈黙の証言だと思われました。このまえ亡くなられた、声なき声の会の小林トミさんを、私は大好きでした。彼女ががんばってきたのはそれが言いたくても言えない人の運動だったからです。

 私は最後に自分の部族の代表とお会いして、私は今後どうすればいいかとききました。私はここに残って、みなさんが辛いときに、いっしょにがんばっていきたいといったところ、彼はあなたの仕事はここに残るより、声なき私たちの声を伝えてくれることが最も大事なことなんだよ、と言われました。私は涙を流しながら、バグダッドを脱出しました。

 出る最後の日まで、戦争の近さを思わせるような雰囲気はバグダッドには全くありませんでした。自分が泊まっている親戚の家では毎日、お父さんが出勤して子供たちが学校に行って普通の生活をしています。私は何度もみんなに聞きました。

 『こんなたいへんなときにどうして普通になれるんですか?』

 バグダッドにいるときは理解しにくいですが、戦争が近いということを気づかせるものはまったくありませんでした。彼らは、こういう説明を私にしました。

 『私たちはもう30年近く戦争の中にいるんですよ。特に、今20歳くらいの方でしたら生まれたときから、戦争なんですよ。子供たちに何かを書かせれば、本来なら蝶とか花とか、美しい風景を書くものなのに、そうではなく、戦車とか、ミサイルとか、飛行機を書くんですよ。勝手に私たちのかわりに語らないでください。戦争しか知らない人たちの気持ちはあなたにはわかりませんよ。』
 
 最後の日になって戦争を思わせるものがようやくあらわれました。それは、急に街に現れた、軍人がいやいや、くさりながら、政府関係の建物の前におきはじめた土嚢でした。それぞれの土嚢の塊のうしろに一人二人の軍人がたっていました。その顔とその立ち具合は忘れられません。まったくやる気もなく、まわりの住民に対して、体全体でアピールしているようでした。

 『私たちもあなた達といっしょなんだよ。いざとなったときは君たちの側に断つから心配しないで』というメッセージを感じました。

 そして、最後の「イラク」との接触は国境でした。その時はすでに、一時間毎に脱出の車の値段がかわっていくような状況でした。本来は、100ドルだったのが夕方になると1000ドル近くまではねあがっていました。国境に着いたら、いつもみたいに車が全部こまかくチェックされました。命をかけて証言してくれたいろいろな人たちの貴重な映像を私は、みつからないようにあっちこっち体じゅうにいれていました。

 全部うまくいったように見えた時、急に国境の役人が私に『お金をもっていますか?』とききました。

 そして、お金を出そうとする私の体をさわりはじめました。それで、テープが次から次に見つかってしまいました。イラクでは、ビデオテープまたは携帯電話はかたく禁じられています。見つかるとそのままバグダッドに帰されて、裁判官の前にたたされ、48時間拘束され、ビデオなどはもちろん没収され、大変な目に遭うのが普通です。一番状況をわかっている車の運転手の恐怖に怯えている顔が忘れられません。しかし、テープを一個ずつテーブルの上に並べて、携帯電話をならべて、その役人はぼくにむかって悲しそうで寂しそうな、それでいて厳しそうな不思議な顔で私を見つめました。

 『これは何ですか?』

 答えに困った私でしたが、その役人は急に頭をかしげ、目の前でテープを一個ずつとり、一つにまとめ、そして携帯をそれにまとめて私に渡しました。
 
 その瞬間の運転手のびっくりしたその顔の表情と、後からの話をきいたところでの私の勝手な想像ですが、国境の役人まで、助けてくれという無言の証言をしていたのではとおもいます。声なき人のそのときの声はこうであったのではないかと思います。

 『この映像を、そして私たちの悲惨な状況を伝えてください。早く助けに来てください。』

 イラクがおかしくなってきたことを実感しました。12年前は国境手前まで来て引き帰した経験もあるからです。

 サダム・フセインは、最初はちがう宗派や、民族、人種をまとめ良い治世をしていたと聞きました。しかし、彼のことを今回倒すことが出来なかったら自殺をするという声が、イラクにはたくさんあがっているということを聞きました。

 さて、あの恐怖から逃れて自由な空気を吸っているヨルダンのアンマンで、私はどうすればよいのでしょうか?声なき声を伝えるのが使命であると思います。しかし、それは、簡単ではないでしょう。私は、戦争というものは、常に失敗だと思います。でも、戦争しか脱出の道がないというところまでイラクの状況を無視した日本をはじめとした私たちが悪かったと思います。

 今のイラクの人々が、もし自由に好きなデザインのTシャツを着ることができればそのTシャツの言葉は、「Thank you. Now go home」だと思います。このことを歴史的体験として、いちばんよくわかっているのは私たち日本人だと思います。あの悲惨な戦争の時にもう少しねばり強く交渉が出来ていれば。

 私が、日本のあちこちに、講演に行くときに、空襲がなかったところがほとんどないことに気が付きます。粘り強く交渉していれば、日本やアジアでの大変な被害はなんとかして逃れることが出来たでしょう。

 でも今回誰の罪が重いか。わたしがおもうのは戦争の被害からたちあがって平和を国の基本としてかかげた日本だと思います。

 最近の日本では日本は普通の国にならなければという声をよく聞きます。そのとき、湾岸戦争のときにはじめて聞いた言葉で、ヨルダンの難民キャンプに政府の特別機にのってキャンプにはいったところ、いきなり言われた言葉をよく思い出します。

 3000人くらいの難民がいたキャンプでしたが、『日本って素晴らしい国ですね』といわれました。
 
 理由を尋ねると、『日本って素晴らしい国ですね。だって、戦争がしたくても法律で出来ないってきいたんです。それってほんとですか?』と応えられました。

 私は、その意味について判然としなかったのですが、チームできた学生の一人は憲法の話をしているんじゃないでしょうか、といいました。はじめて、日本の理念が世界の中で評価されていること、尊敬されていることを実感しました。私たちがそこから帰ろうとするときに、私たちも日本みたいな国になってみせるよ、といわれたときの感動は忘れられません。

 今回のバグダッドも同じでした。日本の話をしたり、日本の憲法の話をするとみなさんはとっても喜んでくれました。今の状況が一段落したらイラクも同じようにできたらいいなぁ、といっていました。特にその事をいっていたのは30歳くらいの方々で、その世代ですと10年以上戦争をしていた世代でした。

 まだ遅くありません。日本を含んだみなさんはイラクへの戦争をとめることはできませんでした。アメリカイギリスは果たして正義ではないと思います。でも正しい方向で誰も結果を出せなかったので、やむをえず、声なき声にこたえて動きました。

 日本はまだ大きな宿題が残っています。今回各国をまわっていくなかで一つ大きなことがわかりました。日本という名前すらどこからもあがってきこないという事実です。これからイラクは復興という方区に切り替わっていくと思います。湾岸戦争の時にあんなに何も出来なかったことを反省したのであるなら、今回イラクの復興に一番大きくかかわるべきではないでしょうか。

 私たちは今アンマンとバグダッドで活動しています。私たちをはじめとしたいろんな団体に日本から、学生、医者、建設技術者から主婦まで、今から再び歩き出していくイラクに対して貢献するべきではないでしょうか。誇り高く、平和をかかげ、普通の国ではなく世界の希望と期待を裏切らない理想の国、それこそ、特別な国を目指すできではないでしょうか。日本の仕事はこれからです。ものごとをよくわからない政府に対して、日本は、あなた達だけの国ではない、私たちの国でもあると意思表明すべきではないでしょうか。どうか、みなさん立ちあがってください。今こそ、そのときです。

 そしてもう一つ、イラクと同じように、声なき人が今も苦しんでいる隣の北朝鮮も同じ状況にあるのではないでしょうか。イラクが終わったら、次は北朝鮮との交渉の失敗を機に武力で解決しようとアメリカなどが目をむけるでしょう。日本はイラクでの反省をいかしてねばり強く、戦争をするのと同じ勢いで命をかけて平和を追求する。声なき人の声は、
 
 『戦争をしないでください。そのかわり私たちを助けてください。』
 
であるのではないでしょうか。その声に日本が、世界の理想である平和憲法をかかげて、ねばり強く戦争がおこらなくてもいいように動き、応えるべきでしょう。これらの理想の道に、これから先は国民一人一人をいれて、がんばっていくべきではないでしょうか。

 最後に、数年前に亡くなった家永三郎さんがCNNのインタビューで語っているメッセージが忘れられません。どうして、家永先生が30年も裁判に負け続けたのにもかかわらず、やりつづけたんですか、という質問に対して、彼は、こう答えました。この言葉を最後にご紹介して終わりたいと思います。

 『戦争前、私は学校の若い教師でした。あのとき、みんなはおかしいと思いました。でも、誰もそのとき、勇気をもたなかった。私一人でもあの大事なときに少しでも何かすればよかった。何もしなかったおかげで、大変悲惨な戦争がおこりました。裁判が負けつづけても、ぼくが死ぬまで、あのとき何も出来なかったことに対しての自分の罪は消えません。まだできることがありますので、他人の責任としないで自分たちの責任としてやりましょう。』

ケン・ジョセフ
日本緊急援助隊代表。
1957年生まれ。東京都出身。
宣教師の息子で 18歳まで日本で育ち大学進学のため両親の故国アメリカへ。
カルフォルニア・バイオラ大学マスコミ学 比較文化学科卒業。
同大学大学院卒業、同専攻学修士。

http://www.horipro.co.jp/talent/SC042/

ケン・ジョセフの世界どこでも日本緊急援助隊 ケン・ジョセフ (著)
                    徳間書店 価格:¥1,700

http://plaza.rakuten.co.jp/aff.phtml?url=http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198616604/

日本緊急援助隊
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